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白道燃ゆ
「死の縁無量でございます。病死する者、焼死する者、事故死する者、人間一度は死なねばなりません。私の死によって、一人でも真実の仏法を知り、真実の幸福に救われるならば、これにすぎたる本望はございません。」
...
燃えるが如き、かかる決死の信念がなければ、真実の仏法は伝え切れないからである。
3
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってか、この身を度せん」
まことに、永劫の迷いを断ち切り、絶対の幸福を獲得する為に生まれて来たことがひしひしと身証される。
5
仏法では、我々の煩悩は八万四千に集約される....
しかし、八万四千の煩悩とは、我々の欲望は無限だということである。
6
限度のある収入しかないのに、欲望は無限なのだから、アンバランスにならざるを得ない。
たとえ、収入がふえても、イヤ、ふえればふえるだけ満たされない焦燥感と不安は増々激しくなり、この世の地獄を展開するのだ。
8
この人生の実相を凝視して、南無阿弥陀仏に、全生命を投入する時、始めて
「われ、生きるしるしあり」の踊躍歓喜が湧き上がるのだ。
10
金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、と言う迷信が、人類を支配している。
14
二千六百年前、釈尊もこれを知って、驚かれた。彼はインドのカピラ城主、浄飯王の長子として生まれているから、将来の地位は確立していた。
しかも親の盲愛を受け、春夏秋冬、四季の御殿に住まわされ、五百の美女とたわむれて、栄耀栄華の限りを尽くした。
凡そ現代人が、必死に求めているもののすべてを、釈尊は持っておられた。我々がその中の一つでも得ることができれば、どんなに幸せであろうか、と固く信じているものの全部を、釈尊は持っていられたのである。
しかもなお、満足できない自己の魂の叫びに驚いて、それら一切を投げ捨てて、入山学道なされたのは、噴火山上の舞踏を楽しむ我々に対する警鐘に外ならない。
18
忙しい忙しいと走り回っている間にも、無常の殺鬼は念々に迫っているのが、生きとし生きる者の相である。
「仏法には、明日という日はない」
21
しかし、これらの幸福には常に不安がつきまとって離れない。明日はどうなるか判らないという不安が去らない。
22
これらの幸福は、今はあっても、何時無くなるか判らぬ無常のものだから、本当の幸福とは言われない。このような不安の充満している幸福で、我々が心から満足できる道理がない。
27
肉体の総てが、全く入れ変わってしまった時でも、私という根源的主体性というものには、全然、影響が及ばないのか。
41
真実の宗教は、唯一絶対のものであるから、ただ一つしかないのが当然だ。
しかもその教えは、三世十方を貫く普遍の真理でなければならぬ。
同時に、一切の生物が救われ得る教えでなければならぬ。
42
仏教は因果の大道理に立って、かかる宇宙創造説を徹底的に否定し、宇宙万物は因果の法則に順って、成就壊空の変化流転を繰り返しているので、そこには、何ら支配的な神は認めない。
45
念ずる心も・信ずる心も・祈る心も・微塵ほども持ち合わせていないのが、人間の真相ではないか。
この我々の実相を見抜いて救い給うのは、阿弥陀仏の本願以外には絶対にない。
48
しかし、善だと知りながらも善が行えず、悪だと知りながら悪を止められないのが、我々の悲しい現実である。
50
如何に科学が長足の進歩をしても、この人間の実相は少しも変わらない。
人工衛星が飛び、宇宙散歩がなされていても、その下には相変わらず、一家心中、夫婦別離、親子げんか等、千苦万苦の怒涛は渦巻いている。
お互い相手の立場を理解し、愛し合ってゆくことがよいとは判り切っているのだが自分の都合に反する、憎悪の心しか起きない。
いけないことだと泣きながらも、無間のドン底から噴き上げる悪性の炎は、科学や教養や修養のコップの水位では消せるものではない。
科学や哲学、道徳、倫理、一切の学問の限界がそこにある。
53
金でも物でも名誉でも、我々の五欲は、割愛の法則で、満たせば満たす程、欲望は倍加されてゆく。
その為に生まれ難い人生の目的を見失い、五欲のとりこになり、その為に一命を奪われるのである。
63
「悪性更に止め難し
心は蛇蠍の如くなり
修善も雑毒なる故に
虚仮の行とぞ名ずけたる」
68
一生造悪の極悪人が、その自覚も無しに、パッと白煙が立ち登る一瞬の人生に驚いた時は、すでに人生の終着駅についているのである。
71
ちょっとしたことで腹を立てる腹立て筋、あってもあっても欲しい欲しいと思う欲深筋、ネタミ、ソネミ、ウラム、いやらしい愚痴筋など、数えあげればキリのない悪性な筋を持っている。
いや持っているだけではなく、日々夜々、それが発現して我々を苦しめ、ことごとに醜態を演じている。
76
死を忘れての一切の営みは無駄であり、死を見つめ、死を超える者にのみ真実の生が開かれることを忘れてはならない。
79
財産も、建物も、名誉も地位の箔も、死の前には執着を増すばかり、妻子は輪廻の仲立ちとなるだけだ。
92
自動車に跳ねられて死ぬ者もあれば、雷に打たれて死ぬ者もいる。水に溺れて死ぬ者もあれば、火に焼けて死ぬ者もいるが、所詮、総ての人間は、限りなき自己の欲望の為に殺されてゆくのだ。
96
この真実を知った者は、二度と、つまらぬ迷いに命をかけることはできない。
この度こそ、未来永遠に生きぬく真実の仏法、南無阿弥陀仏に全生命をかけずにはおれないのだ。
105
無我説は、それらを否定するかのように誤解している者がいるが、無我説は小事に拘泥し、我執を募る人間欲望のあり方に対する警告である。
110
「念仏者は無碍の一道なり
そのいわれいかんとなれば
信心の行者には
天神地祇も敬伏し
魔界外道も障碍することなし」
118
「南無阿弥陀仏を称ふれば、
この世の利益きわもなし、
流転輪廻の罪消えて、
定業中夭除こりぬ」
137
釈尊は、人間の実相を「曽無一善」と説かれ、親鸞聖人は「一生造悪」と言われている。一生造悪とは、一生の間、悪しか造ることができない、ということで、微塵ほどの善も認められないことである。
それでは、時には我々も、親切や施しをやったりするが、これらもみんな悪になるのか、という疑問がおきてくる。
勿論、仏教でも、親切や布施行は勧めてこそおれ、悪などとは絶対に教えていないから親切や布施は善に違いない。
ただ、悲しいことには、我々の行う善には毒が含まれているので、真実の善とは言われないのである。微塵ほどの悪をも容赦しない仏教の立場から、我々の善と考えていることを検証してみよう。
よいと思ってやっても、他人がそれを認めてくれないと、腹が立つのは自分のやったことが、よいと自惚れているから、やらない者を悪者のように思えてくるのだ。
時々我々も、親切らしいことや、布施行の真似ごとをやるが、情けないことには、やったことを何時までも記憶している。
そして秘かに自負している浅ましい心だ。受けるよりも、与える喜びを知ってはいるが、「与えた」という意識が残り、それに対する何らかの報酬を期待する心が去らない。そして、一度その期待が裏切られたり、満足に得られない時には、猛然と腹が立って心の中で相手を殺す。
それは先に善いことをしてやったという、自惚れが元であるから、大きな善ほど猛毒が含まれている。
仏眼から見れば、人間の善根功徳は、俗気粉々たる臭みを放って、鼻持ちならぬものなのだ。
....
これは決して冷酷であってよいとか、ズボラであってよいとか、善を修め愛情を凌ぐことが害だとか、無用だとか言われているのでは断じてない、といことである。
むしろ、それとは反対に、「真剣に真実の善を求めようと猛進してごらんなさい。真実の善や功徳は、微塵も積めない自己を明らかに発見するから、そこまで進め!!」
と教えられるのだ。
真に善根を積もうと懸命に勤めた者だけが、善根のカケラも積めない自己に驚き、心から他人に親切しようとした人だけが、造毒の親切しかできない、虚仮不実の自分にアキレルのだ。
141
悪人を悪人と知らぬ者こそ本当の悪人だ。
158
「一向専念無量寿仏」は、釈尊出世の本懐経たる『大無量寿経』の、結びをあらわす仏語である。
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こんなことが知りたい 1
前書き
戦後、世界を風靡したドイツの大哲学者、ハイデッカーが老後の日記に、「今日、英訳を通じて、始めて、東洋の聖者親鸞を知った。若し、十年前に、こんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて世界中に弘めることを、生き甲斐にしたであろう。だが、おそかった」としるしています。
この小著を縁として一日も早く一人でも多く、真実の信心決定して、人生の目的である絶対の幸福を獲得して頂きたいと念ずるばかりであります。
pg 1
信心はなぜ必要なのかと仰言いますが、私達は何かを信じなければ生きてはゆけないからです。信心とは何かを心で信ずることです。信ずるということは言葉をかえればたよりにする、あて力にするということです。
私達は何かをたよりにし、あて力にしなければ生きてはゆけません。即ち、何かを信じなければ生きておれないのです。
pg 2
苦しみ悩みどこから起きるのか考えてみますと、信じていたものに裏切られた時に起きて来るのです。
pg 3
仏法を求める目的は生死の一大事、即ち後生の一大事の解決をする為です。仏教の内容も、総ての人々に生死の一大事、後生の一大事のあることを教え、その解決の方法を教示なされたものばかりです。
釈尊一代の教え、八万の法蔵といわれる一切教も、この一大事を我々に如何に知らせるか、この一大事を如何に解決するかを教えられた以外の何ものでもありません。
それはそのまま、人生究極の目的を教示なされたものです。そのことは「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん」の仏語によっても明らかです。
pg 6
三 生死の一大事とはどいうことなのか
問: 仏法を聞く目的は生死の一大事の解決にあるといわれますが、生死の一大事とは、どんなことなのでしょうか。
答: 親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示下された生死の一大事とは、どんなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
死後の世界を認める人も認めない人も関係なく、この一大事から逃れることは出来ません。地獄の実在を肯定する人にも、否定する人にも同じくこの一大事が惹起致します。経典に釈尊は、「一切衆生 必堕無間」とこれを説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです。その他、後生の一大事の説かれていない教典はありません。
pg 12
未来のジゴクは、現在のジゴクの延長ですから、現在のジゴクを解決することが一切の救いの根本になります。阿弥陀仏の本願は、平生業生(平生に救う)が、その淵源、肝腑になっているわけもお判りになると思います。
pg 15
虎を見たことのない人は虎なんていないものだと思っていてもよいが、虎というものが、実在しているのだからどうにもなりません。幽霊もそのように実在するのだけれども見たことのない者には信じられないだけのことです。
pg 23
仏教では人間に生まれたことは大変有難いことだから喜ばねばならないと説かれています。『雑阿含経』の中には有名な盲亀浮木の譬喩があります。
或る時、釈尊が「たとえば大海の底に一匹の盲亀がいて百年に一度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に一本の浮木が流れていて、その木の真中に一つの穴がある。百年に一度浮かぶこの亀が、丁度この浮木の穴から頭を出すことが一度でもあるだろうか」と尋ねられた。阿難という弟子は「そんなことは殆ど考えられません」と答えると、釈尊は「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、今の喩えよりも更にあり得ぬ難いことなのだ」と仰言っていられます。
pg 161
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏を称れば、この世の利益きわもなし、流転輪廻の罪消えて、定業中夭のぞこりぬ」と仰言って、これは信心獲得して、念仏すれば、この世の利益は限りなく、当然受けねばならぬ業報も、若死することなく、天寿を全うすることが出来るのだと言われています。
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こんなことが知りたい2
pg10
では絶対の幸福とは何か、結論を急ぎましょう。
この場合、絶対というのは、無上、最高不二という意味と、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということです。
最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地をいうのです。死に直面しても変わらないものならば、その他の障害によって動乱することは毛頭ありませんから、何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです。
pg 13
宗教とは文字通り宗となる教えで、肝心要を示す教えであり、大宇宙の根本道理を説くものです。肝心要に二つも三つもありません。
真実の宗教は根本道理を説くものですから、あれやこれやとあるものではありません。
このように宗教は唯一絶対の真実を道を説くものでなければなりませんし、真実の道は唯一つしかない[.....]
正しい宗教は三世十方を貫く大道理の上に立つものでなければならないということと、他面、迷い苦しむ一切のものが、救われる教えでなければならないということです。
pag 52
『般舟経』に明らかにとかれています。
「三世の諸仏は、弥陀三昧を念じて等正覚(仏)になる」
これは一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、仏になったと言うことです。
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こんなことがしりたい3
2
即ち、細胞を統一している主体というものがなければなりません。
いくら年をとっても、気だけは若い感じがするものです。
これは統一的主体としての自己があって、それは肉体の老化と関係なく、永遠の青年であるからです。
これを仏教では、阿頼耶識とか業魂といいます。
いわゆる肉体が滅びても、永遠に滅びない不滅の生命です。
7
人間はみな死ぬ、判り切ったことです。
しかし、誰しも直ぐ死ぬとは考えていません。
ということは、誰でも本当に自分が死ぬとは思われないということです。
知識では知っていても、実感が全くないのです。
己れの死の直前まで人間はそのこのについては、完全な目隠しをされているのです。
だからどれほど想像力を逞しくても、死の実態には遠く及ばないものなのです。
10
病気が怖い。老いが怖い。失敗が怖い。地震が怖い。核戦争、公害、食糧危機、人口問題、エネルギー危機といっても、その根底には死があるからです。
死という核心に触れることは余りにも怖ろしすぎるので、それに衣を着せ、やわらげたものに対面しようとしているのです。
12
人間が生きる為には必ず何かの希望が必要です。
だとすれば、近い中に死を迎えること必至のガン患者にとって、どんな希望が残されているといえましょうか。
29
宗教は人間の生死を含めて一切を動かす根本の教えとなるものです。
35
「天上天下、唯我独尊」
ということは、我々人間には、天上天下広しと雖もたった一つしかない聖なる使命を果たすべく、この世へ生まれて来たのだということなのです。
48
「一向専念無量寿仏」
49
釈迦が一代経の結論として御教示になったお言葉で、
「お前達の後生の一大事は阿弥陀仏しか救い切れる仏はないのだから、一向に専ら阿弥陀仏を念じよ」
56
「末法の今日、戒律を守る人間なんて街の中に虎がいるようなものだ」
88
親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた時に一度死んだ、と仰言っておられます。同時に無碍の光明界にとび出させていただいた、とも仰言っておられます。
『愚禿鈔』の
「本願を信受するは前念命終なり、即得往生は後念即生なり」
96
「更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ、人にも教へ聞かしむるばかりなり」
106
「南無の言は帰命なり... 帰命は本願召喚の勅命なり」
...
親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の方から、
「そのまままかせよ、とよびよせる命令である」
126
二種深信といいますのは、二種の深信をいいます。
深信とはツユチリ程の疑心もなくなった心をいいます。
二つのことについてツユチリ程の疑心もなくなった心を、二種深信といいます。
二つのこととは、一つは機に就いて、二つには法についてであります。
機といいますのは、罪深い私達のことであり、法は阿弥陀仏の本願のことであります。
金輪際助かり切らぬ己れの実態に、ツユチリ程の疑心もなくなったことを、機の深信といい、その私を必ず助けるという弥陀の本願に、ツユチリ程の疑心もなくなったのを、法の深信と申します。
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こんなことがしりたい4
pg 43
人間の知恵でなかなか説明の出来ない事柄や現象を全部神の仕業としたもので、いわゆる人間の妄想から生まれた神です。
pg 53
それ真実の教を顕わさば、即ち、『大無量寿経』是れなり。(教行信証)
pg 55
諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心に廻向せしめたまへり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。唯逆と正法を誹謗せんとをば除かん。
pg 57
仏法は聴聞に極まる。
pag 60
『大無量寿経』 易往而無人 (いおうにむにん)
親鸞聖人は『尊号真像銘文』
「易往而無人というは、易往はゆきやすしとなり。本願力に乗ずれば本願の実報土に生まるること疑いなければ往き易きとなり。
無人とは、ひとなしといふ。ひとなしといふは、真実の信心の人はありがたき故に、実報土に生まるる人稀なり。」
pg 76
仏法は毛穴からでも入る調熟の光明ならいつとはなしですが、破闇の光明は聞即信の一念でなければなりません。
三世の業障一時に罪消えでなければなりません。
79
親鸞聖人の御教えを無我に相承なされた蓮如上人
98
仏教で邪見といいますのは、よこしまな考え、誤った思想、愚痴や無知のことで、因果の道理を無視する間違った考えをいいますが、浄土真宗では阿弥陀仏の本願を計らっている心をいいます。
pg 99
憍慢とは、おごりの心、慢心、思い上がり、おごり高ぶる心、他人を軽んずる心、自惚れ心をいいます。
浄土真宗では、地獄一定の真実の自己が判らず、己れは善人だと自惚れて、死んだら極楽、死んだらお助けとねとぼけている心です。
102
まず雑行といいますのは、これだけ親孝行もしている、これだけ他人に親切もしている、これだけ布施もしている、これだけ堪忍もしている、これだけ社会公益にも尽くしている、これだけ慈善事業もしているから、死んでも悪い処へは行かないだろうと思ってやっている行為を、雑行というのです。
いわゆる、阿弥陀仏と無関係の諸善万行をいうのです。
106
大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。
その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。十八、十九、二十願がそれです。
十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対に幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、王本願といいます。
130
釈尊出世の本懐経である『大無量寿経』には、
「大火の三千大千世界に充満するありとも、要らず当に此を過ぎて是の経法を聞き...」
と教えられ、これを受けて親鸞聖人は
「たとい大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきく人は、ながく不退になかうなり」
蓮如上人は
「火の中を分けても法はきくべきに、雨風雪はものの数かわ」
と仏法は聴聞に極まるとおっしゃっておられます。
「骨折ってきけ、衣食忘れてきけ、間断なくきけ」
と教えた先徳もあります。
pg 134
連如上人は
「誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり。」(白骨の章)
pg 139
「念仏誹謗の有情は、阿鼻地獄に堕在して、八万劫中大苦悩ひまなくうくとぞ説きたまう」(和讃)
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光に向かって2
6
飲み、食い、眠り放題で、頭角を現そうとすることは、木に登って魚を求めるに等しい、と言わねばならない。
44
時空を超越して、一意専心目的達成に熱中すれば、成就できぬ何事もないにちがいない。
48
一塊の石炭も、永年地中に辛抱したればこそ、遂にダイヤモンドと輝くのだ。況や人生究極の、本懐成就を目論む者に、二・三十年の辛抱がなんだろうか。
何事にしろ、真の栄光を獲得するには、永年の工夫と、執念と忍耐が必須条件なのである。
61
小を侮るものは、大を失う。
64
未来ある者はすべからく白石の如き信念をもって、どんな小さな疵も怖れて、広大の天地を開拓する基礎かためてゆかねばならない。
95
賢いということは、多くのことを知ることではなく、最も大事なことを知ることである。
103
泰然自若、大勇士の覚悟で苦難に向かってゆけばよい。
104
「ここだなあ」の稲にすがって、苦難の嵐に向かって、一歩でも前進したいものである。
108
目先に一喜一憂していては、遠大な未来を見透すことはできないのである。
117
自己を磨くことこそ、出世の要諦。
輝く存在になりさえすれば、人も物も自然に集まる。
己れのたゆまぬ練磨を忘れて、出世のみを求むることは、却って失敗の原因となる、と知るべきであろう。
119
「用事が多いからこそ勉強ができるのだ。君達は閑があれば寝てばかりいるだろう。勉強する時間というものが特別にあるのではない。忙しい時にこそ、暇を盗んで勉強するのが本当の勉強である。用事が多いから勉強ができぬ、などと言っている者は、暇になれば遊んでばかりいる者だ。他人が勉強しているときに負けずに勉強し、他人が休んでいるときも勉強してこそ、他人より秀れた成果をあげることができるのだ。忙しい時間を活かすか殺すかは、その人の覚悟次第である。」
と、諭したという。
「光陰矢の如し」と故人は言った。
まことに月日のたつのは早い。昨日今日と思っていることが、すぐ二ヶ月、三ヶ月となり、半年や一年はまたたく間に過ぎ去ってしまう。毎日、郵便、電話や応対などの雑務に追われ、忙しい忙しいで己の本分が中々果たせない。
無常は迅速であり、生死は一大事である。
一刻たりとも、おろそかにはできぬ。
123
何が禍なのか福なのか。禍は何時までも禍でなく、福は何時までも福でないのが人生の実相である。
沈んで屈するな
浮かんで奢るな
126
姿にかけてこそ真の教育
133
猛進するだけが大将ではない。退却もまた、指揮官の器量である。ときには多くの部下を考え、臆病者の恥辱に耐える、勇気が大切なのである。
142
速く目的地に着きたいのは当然だが、心だけが先走って、あせったり、無理したりすると、かえって疲労がひどくなったり、道を間違えたりして、結果は逆になるものである。
一切のことは、急いで急がず、急がずに急ぐ、ことが大切なのだ。
目的が一大事であればある程、素晴らしければ素晴らしい程、脚下を凝視し、大地を踏みしめてゆく心がけが、大事業を速く達成する秘訣なのである。
146
できることを、できないと思い込むのは懈怠だが、できぬことを、できぬと諦観するは賢明なのである。
149
いかに最後まで気を抜かず、初志貫徹することの難しいことか。成功者の少ない訳も知らされる。
152
今日は他人の身、明日は我身
158
人のふり見て、我がふり直せ
161
何が社会奉仕と言っても、にこやかな笑顔と明るい挨拶ほど、世の中を楽しくするものはない。
162
笑顔と挨拶を出し惜しむ者ほどの、ドケチはないといってよかろう。
ちょっと目先の筋肉を動かし、わずか一・二言を話すだけで、人に幸福を与えることができるのに、それすらもケチるからである。
169
苦しみから逃げ回って生きようとする者は、絶対に楽しみを味わうことができない。
意気地なしや卑怯者と、真の幸福は無縁のものなのだ。
楽の元は苦、といわれるではないか。
173
施した恩は思ってはならぬ。受けた恩は忘れてはならない。
176
若人は自惚れ易い。
自己を過信しているから、挫折が多い。
全てに整然たる組織があるのに、師長を侮り邪魔扱いし、非難攻撃排斥して、自分が有利な地位に立とうとする。
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成功は努力の結晶。楽に得られるものは貧と恥のみである。
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金は使う為にある。
体を使うから体力がつく。頭を使うから頭脳がよくなる。
人間の為に金があるのであって、金の番に人間がいるのではない。肝心は“どう使うか”である。
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真実に死ねる者は、永遠に生き抜く無上人である。
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誰でも元来、偉人となるチャンスや才能は恵まれているのだ。
ただ、それを発揮するか否かは、その人が安全を犠牲にしても、信念を貫くかどうかにかかっている。
古人はこれを勇気と言ったが、危険を怖れざる心と言いたい。生命の恐怖心を克服することである。
身命を賭して信念を貫く指導者こそ、真の先覚者と仰がれるのである。
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相手の立場を理解しようとせず、己だけを主張する、我利我利亡者の未来は暗黒の地獄である。
光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし己も生きる、自利利他の大道を進まなければならない。
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理解を深める努力の外に、真の愛情を育む道はない。
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何時の時代でも、早寝早起きは健康にもよし、成功の秘訣である。ややもすると金持ちを大事にし、貧乏人を疎かにしがちであるが、貧しい人達を大切に、その見方になってあげなければならない。どんなに自分の都合が悪くとも、常に相手の立場に同情し、丁寧に応対することが大切である。
大勢の人々から尊敬されればされる程、身の言行を慎まなければならない。
どんな一枚の紙きれでも、如来聖人からお預かりしている仏法領のものだから、粗末にするのは禁物である。
いくら恵まれ成功しても、常に初心を思い出し懈怠横着になってはならない。
ライバルが現れたら、もっと努力精進せよと、自己を磨いてくれる菩薩と拝んでゆくことが肝要である。
親切は決して他人のためならず、相手を満足に生かすまで、でき得る限りの努力を惜しんではならない。
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精出せば 凍るひまなし 水車
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恐れを知って、しかも、それを恐れない者こそ 真の大勇気者である。
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物を粗末にする者は物から嫌われるから、不自由しなければならないのだ。総ては仏法領であるから、僅かの物でも粗末にしてはならない。
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何も世の中ビクビクすることはいらぬ。
地球でさえも昼と夜とがあり、月には新月もあれば三日月も満月もあるではないか。
大海にも満潮もあれば干潮もある。
栄光盛衰は世の習い。使う金のないときは定期だから、期限がくるまで待てばよい。
不幸や逆境のドン底に叩きつけられたときは大きな試練を受けているのだ。
如来は私により以上のものを与えようとして訓練していなさるのだと思えば愉快ではないか。
順境に恵まれている温室の花より、寒風凛凛たる逆境に鍛えあげられた花は香りが高い。
降るもよし照るもよし。つまらぬというのは、その人がつまらぬということだ。
魂の開眼こ肝要である。
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命をかけて達成できぬことはない。
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背水の陣とも言う。身を捨ててこそ浮かぶ瀬はあれ、捨身ほどおそろしいものはない。
一身を捨ててかかれば、何事も成就せぬことはないのである。
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無財の七施
眼施【げんせ】やさしい暖かい眼差しで周囲の人々の心を明るくする。
和顔悦色施【わげんえつしょくせ】優しい微笑みを湛えた笑顔で人に接すること
言辞施【ごんじせ】優しい言葉をかける
身施【しんせ】肉体を使って人のため、社会のため働くことです。いわゆる無料奉仕することです。
心施【しんせ】心から感謝の言葉を述べること
牀座施【しょうざせ】場所や席を譲り合う親切
房舎施【ぼうしゃせ】求める人、尋ねて来る人があれば一宿一飯の施しを与え、その労をねぎらう親切。
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光に向かって 前書き
歴然として私が無い、この因果の大道理を深信日々精進する、これが仏法者であり、親鸞学徒である。
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六道万行
布施 - 親切
持戒 - 言行一致
忍辱 - 忍耐
精進 - 努力
禅定 - 反省
智慧 - 修養
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龍樹菩薩 150 ‐ 250
天親菩薩 300 - 400
曇鸞大師 476 - 542
道綽襌師 562 - 645
聖徳太子 574 - 622
善導大師 613 - 681
源信僧都 942 - 1017
法然上人 1133 - 1212
親鸞聖人 1173 - 1262
覚如上人 1270 - 1351
蓮如上人 1415 - 1499
庄松同行 1799 - 1871
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説法第一 富楼那尊者
知恵第一 舎利弗尊者
神通力第一 目連尊者
羅睺羅(らごら)
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十界
六道
人間界(にんげんかい)
修羅界(しゅらかい)
地獄界(じごくかい)
天上界(てんじょうかい)
餓鬼界(がきかい)
畜生界(ちくしょうかい)
声聞界(しょうもんかい)
縁覚界(えんがくかい)
菩薩界(ぼさつかい)
仏界(ぶっかい)
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「我が歳きわまりて、
安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、
寄せかけ寄せかけ
帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり」
(御臨末の御書)
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